慎吾ママってジェンダーフリーの対極では……というはなし。
お母さん食堂のネーミングから始まったジェンダフリー論争、追っていくと「慎吾ママ」ってワードが何度も出てくるんですよね。
でもあれって、ジェンダーフリーからもっとも遠い存在なんじゃないかなぁと思うわけです。
私自身は普段ならこういう話題に乗らないようにしていますし、このブログでも特にそういった話題は扱ってません。(多分一度も)
ですが、とても気になったところがあったので書きます、多分今回だけ。
慎吾ママのコンセプトは「ママの代わり」
みなさんご存知の香取慎吾氏が女装をしたあのキャラクターですね。とても有名。
ですが、あのキャラクターが生まれた企画のコンセプトって覚えてますか?
「毎日家事で忙しいママのために朝寝坊をさせてあげたい」というところからスタートしてるはずなんですよね。
代名詞とも言える「慎吾ママのおはロック」の歌詞でも代わりに朝ごはんを作ってます。ママの代わりに。
まずこれが「慎吾ママというキャラクター」の大前提です。
しかし、私には疑問があります。
代わりに育児・家事をするのに女装は必要?
確かにキャラクター的にはインパクトも欲しいでしょうし、実際売れましたし、私もCDを買いましたし、全体的に見れば必要なことだったと思います。
でもあれって「女装する必要はなかったんじゃないかなぁ」と。女装する意味はあるんですけど。
そもそもあの企画はジェンダーフリー論とは関係ないものでしたが、今回はジェンダーフリー論争に巻き込まれてしまっているのでその方向から考えてみます。
ジェンダーフリーという観点だけから考えると、別に男性のままママの代わりに育児と家事をこなせば良いんですよね。
「ママの代わりに育児・家事をするならママにならなければ」と考えて生まれたキャラクターであるなら、それはもう「育児と家事は女性がするものだから女性の役になろう」と言っちゃってるのと同じことなんじゃないかなって。
ジェンダーフリーの考え方とは真逆
性別の枠にこだわらずに、男女平等に自由に生きることがジェンダーフリーならば、ママの代わりに育児・家事をするために女性になりきるってのはおかしいんですよね。
男性のままやれば良いんです。
それこそがジェンダーフリーなのではないかと。
でも「慎吾ママ」は女装したキャラクター。それも育児・家事をするために生み出されているわけですし。
なので、例のジェンダフリー論争で擁護派が「慎吾ママ」を持ち出すのは違うんじゃないかなぁと思っています。私は。
そもそも論になってしまいますが、有名なジョークにもありますよね。
「女装は男性にしかできないので、もっとも男らしい行為だ」
という冗談。
完全に女性になりきるのではなく「男性がママの格好をしている」ということをおもしろさの一つとして売りにしてしまっている時点で「男性であること」を武器にしていることになってしまうのではないか?というところまで話が飛んでいってしまいます。
ジェンダーフリーとはなんぞやと。
さいごに
というわけで、例の論争で「慎吾ママはジェンダーフリーのさきがけ」「ジェンダーフリーの象徴」みたいに言っているのは何かが違うんじゃないかと思っています。
男性と女性という枠がなければ生まれていないキャラクターなので。
単純に例のジェンダーフリー論争においては「違うんじゃないか」と思っているだけで、私は好きなんですけどね、あのキャラクター。
私のブログを普段から読んでいる方はお気付きの通り、直撃世代ですし。
なんてことを考えながら、今日もだらだらとTwitterを眺めています。